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第6話 暗黙の契約

last update publish date: 2026-03-18 01:33:09

暖かく眩しい日差しにあてられて、僕は目を覚ました。どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。

寝ぼけ眼で室内を見回す。相沢さんの部屋だという事を思い出すのに、数秒ほどかかった。でも、肝心の彼の姿がない。

(どこに行ったんだろう……?)

疑問に思い、起き上がろうと寝返りを打つ。体がだるい。昨夜の記憶が、恥ずかしさとともに蘇る。でも、不思議と嫌なものではなかった。

「あんなに気持ちよかったのは、久しぶりかもな」

ぽつりと、本音が口から漏れた。

ベッドから出ようとして、布団の感触に苦笑する。確認するまでもなく、素っ裸だ。相沢さんに抱かれた後、そのまま眠ってしまったのだろう。一応の確認をすると、僕の体はきれいに清められていた。

(こういう事なのかな、あずさが言ってたのって)

ふと、一人の女性の姿が脳裏に浮かぶ。近藤あずさ。五年前に別れた元恋人だ。大学時代に知り合い、意気投合して付き合い始めた。交際自体は順調に続いていたけれど、彼女は少しずつ不満を溜めていたらしい。「貴方の気遣いのなさに呆れたの」という、別れ際の彼女の言葉が、耳の奥に蘇る。

僕としては、あずさを気遣っているつもりだった。でも、彼女としては、何か違うと感じていたのだろう。

僕は、小さくため息をついて服を着る。過去を思い出したところで、どうしようもできないのはわかっている。それでも、相沢さんの細やかな気遣いに触れると、自分の不甲斐なさを突きつけられる。僕は、もう一度ため息をついて、ベッドに腰かけた。

克服したと思っていたのに、まだ彼女のことを引きずっている。そんな自分が、本当に幸せになってもいいのだろうか。

暗い疑問が、僕の心に影を落としていると、部屋の扉が開いた。

「なんだ、起きてたのか。いつまで経っても来ないから、エロい事して起こそうと思ったのに」

と、相沢さんがいたずらっ子のような笑みを浮かべている。

「相沢さん……。おはようございます」

と、笑顔を向けるけれど、上手く笑えている自信がない。

「おはよう。どうしたの? そんなに落ち込んで」

心配そうに言いながら、相沢さんは僕の隣に腰を下ろした。

「あ、いえ……ちょっと、昔の事を思い出してしまって……」

僕は、苦笑しながら告げる。

「そっか。じゃあ、俺が忘れさせてあげる」

相沢さんはそう言うと、僕の頬に優しく触れた。

「え……?」

相沢さんの方へ顔を向けると、彼に口づけられた。強引でも、荒々しくもない、触れるだけの優しいキス。ただそれだけなのに、脳裏に浮かんでいたあずさの姿が、溶けるように消えていく。代わりに、温かい安心感が、胸の中に広がる。幸せになってもいいのだと、心の底から思えてくる。

どちらからともなく離れると、

「朝飯……いや、早めの昼飯って感じだけど、作ったからさ。一緒に食べようぜ」

と、相沢さんは爽やかな笑顔を見せた。

僕はうなずくと、彼と一緒に寝室を出る。

リビングに向かうと、テーブルには二人分の料理が並べられていた。

僕達は、当然のように対面で座る。この構図を自然に受け入れている自分がいて、思わず頬が緩む。

「どうしたの?」

相沢さんが、不思議そうに首をかしげる。

「いえ、何でもないです」

「えー? 教えてよ」

相沢さんにせがまれる。

でも、別に言うほどの事でもないから、僕は言わなかった。

「佳晴さん」

相沢さんは、表情を急に険しいものに変え、低い声で僕を呼んだ。

「――っ!」

ただ名前を呼ばれただけなのに、心臓が跳ねる。それどころか、テーブルの下で、下半身がびくりと脈打った。

「お、し、え、て?」

ねっとりとたずねる声音は、僕に拒否権はないと告げている。

僕は、火照った体を鎮めるように深呼吸をする。

「……この光景、なんか見慣れてきたなって思っただけですよ」

諦めたように告げると、相沢さんはきょとんとした表情を浮かべる。

「あれ? もしかして、言われた事なかったんですか?」

「あぁ……うん。何度か、ここに通した奴はいるけど、言われた事なかったな」

何だか新鮮だと、相沢さんがはにかむ。

夜のお相手には困っていなさそうだったから、てっきり、言われ慣れているのかと思っていた。

「えっと……そういえば、今日はポトフなんですね」

何だか急に気恥ずかしくなって、僕はやや強引に話題を変えた。

「まあね。昨日、ちょっと無理させちゃったかなって思ってさ」

と、申し訳なさそうな相沢さん。

(昨日の事、この人なりに気にしてたんだ……)

何だか相沢さんがかわいく思えてきて、自然に微笑んでいた。

「笑わなくたっていいだろ? これでも、がっついてた自覚はあるんだからな」

そう言いながら、相沢さんはむくれている。

「すみません。思ったよりも、貴方がかわいらしかったもので」

申し訳程度に謝罪して、僕はポトフに手をつけた。

具材はどれも柔らかく、優しい味わいで体に染みわたっていく。

「美味しい……」

吐息とともに、感想が口をついて出る。

「それはよかった。……うん、俺史上、一番いい出来かも」

なんて、相沢さんは一口食べてうなずいている。

「ポトフ、よく作るんですか?」

僕の問いに、彼はうなずいて、

「昔から好きでさ。簡単だから、季節関係なく作ってるんだ。真夏に、熱々のポトフも乙なものだぜ?」

と、笑顔を浮かべる。

「うーん……夏場なら、しょうがを乗せた冷や奴がいいですかね。さすがに、熱々のポトフはちょっと……」

「確かにそれもいいけど、冷たいものばかりじゃ、体が冷えちまうよ。冷えは、夏バテの原因になりやすいんだから」

なんて、真面目な顔の相沢さんに叱られてしまった。

軽薄そうに見えていたけれど、その実、きちんと考えているのかもしれない。

(……今年の夏は、ちょっと温かい食べ物、増やしてみようかな)

ふと、そんな事を考える。

「それはそうと、佳晴さんって、俺に対してずっと敬語だよね? どうして?」

箸を置いて、相沢さんがたずねてくる。

「どうしてって……出会った時の僕達の関係が、店員と客だったからですけど」

「それだけ?」

きょとんとする相沢さんに、僕はそれだけだとうなずいた。

「え、マジでそれだけ? 俺より年下だからとか、遠慮してるからとか、そういう理由はないの?」

「ないですよ。そもそも、僕、初対面の人にタメ口なんて使えないですし。その延長です。まさか、バーの店員さんに二夜連続で抱かれるなんて、想像すらしてませんでしたけどね」

僕は、そう言ってポトフを食べる。優しい味わいが、体に灯ったどろりとした炎を完全に鎮めてくれた。

それはそうかとつぶやいた相沢さんは、ふと、何かを思案するように顎に手を当てる。

「なあ、佳晴さん。もし、あんたが嫌じゃなかったら……タメ口で話してもらえないかな?」

相沢さんは、少し躊躇いがちに告げた。それまで、強引さが服を着て歩いているような感じだったのに。

「どうして?」

僕は、思考停止で問いかけた。

そんな事は、少し考えればわかりそうな事だ。敬語のせいで、壁があるように感じる。二夜連続で肌を重ねているのだから、口調ももう少し砕けてもいいのではないか。おそらく、そんなところだろう。でも、僕は、そこまで考えられなかった。彼との関係はここまでだと、暗に区切りをつけていたのかもしれない。

「そんなの、佳晴さんともっと仲良くなりたいからに決まってるじゃん。言ったでしょ? あんたは、俺の好きなタイプだって。幸せになれる方法を教えてあげるって」

「でもそれって、昨夜だけの話じゃ……?」

訝しげにたずねると、彼の瞳から音もなく光が消えた。

「そんな訳ないじゃん。まさか、逃げられるとでも思ってる? 逃がさねえよ」

と、妖しく笑って舌なめずりをする。

その仕草に、下半身が疼き、鎮まったはずの炎がまた灯される。

(嘘だろ? 欲求不満は、解消されたんじゃなかったのか!?)

早鐘を打つ鼓動と呪いが解けていなかった事実に、僕は浅い呼吸を繰り返す。

一種の対処療法だと思っていた。なのに、彼の妖艶な瞳に、ちらりと見える舌先に、絡みつくような声音に、欲情している自分がいる。どうしようもなく、本能的な部分で彼を求めてしまっている。

「……相沢さん」

彼の色香に耐えながら名を呼ぶと、

「竜希」

ピシャリと訂正された。

「名字じゃなくて、名前で呼んでよ」

先ほどまでの妖艶さはどこへやら、爽やかな笑顔で彼は要求した。

(……本当に、ころころと表情が変わるよな)

動揺しながら、僕はそんな感想を抱いた。勝手に昂る本能を押さえ込むように、拳を強く握りしめる。

おそらく、相沢さんにも伝わってしまっているのだろう。先ほどから意味深な笑顔を浮かべている。

「すみません。それは、まだ……」

僕は、相沢さんから視線をはずして告げた。

(名前呼びなんて、特別な関係でもないのに……)

心臓が痛いくらいに、鼓動が速い。

「そっか……。じゃあ、しかたないな。でもさ、タメ口にするのは、わりと簡単じゃない?」

諦めたかと思いきや、彼は食い下がってくる。

「まあ、それくらいなら……」

少しずつだけれどと、僕はうなずいた。

「やったぜ! じゃあ、これからは、敬語なしだからな!」

と、相沢さんは子供みたいにはしゃいでいる。

そこまで喜ばれてしまったら、嫌だとは言えない。

それから、僕達はポトフを食べながら、お互いのことについて話した。年齢、好きなものや嫌いなもの、趣味など、当たり障りのない会話が続く。

「……ねえ。佳晴さんってさ、どんな体位が好きなの?」

何でもない事のようにたずねられて、僕は食後のお茶を吹き出しそうになってしまった。

「……あ、ぶなかった……。急に、何?」

「いや、ふと気になってね。正常位、騎乗位、バック……いろいろあるじゃん?」

にやりと、相沢さんが妖しげに口角を上げる。

「まあ、いろいろあるけど……。女性相手だったら、正常位……かな? でも、男性相手だと、よくわからなくて……」

思案しながら、僕は正直に告げる。

「そういえば、男相手は、俺が初めてなんだっけ?」

相沢さんの問いに、僕は無言でうなずいた。

抱かれる側になるのは初めてだったから、とてつもなく気持ちがいいだなんて知らなかった。だから、どんな体位が好きなのかなんてわからない。

「じゃあ、それも含めて、いろいろ試していこうか」

優しく提案する相沢さんは、爽やかなのにどこか危険な雰囲気がある。僕が拒否した瞬間に、牙を剥きそうだ。

「……明日、仕事だから」

この後の情事は避けたいと、暗に告げた。

「ふーん、そっか。それじゃあ……」

含みのある笑みを浮かべると、相沢さんは僕の隣に移動する。

「な、何……?」

警戒するようにたずねると、

「セックスしなければ、いいんだよね?」

相沢さんはそう言うと、僕の答えを待たずに僕の太ももをさわさわとなで回し始めた。

「え、ちょっ……!? ひっ……! ゃ、やめ……」

相沢さんの触れ方が絶妙で、僕の肌がぞわぞわと波打つ。

「えー? 普通に触ってるだけじゃん」

「ち、ちがっ……! こんなの、んっ! 普通の……触り方じゃ、ない……!」

彼を止めようとするけれど、快楽のせいで手に力が入らない。息が上がり、言葉に吐息が混ざってしまう。

「もう一回、聞くよ? セックスしなければ、いいんだよね?」

耳もとでささやかれ、僕は思わずうなずいてしまった。

「じゃあ、続けてもいいよな?」

たずねるように、相沢さんが宣言する。

返事の代わりに、僕は上目遣いで彼を睨んだ。

「したくなったら、言って。優しく抱いてあげる」

言いながら、彼の手は止まらない。

僕は小さくうなずいて、ただ与えられる緩い悦楽に耐えるだけだった。

「声、出してもいいんだぜ?」

煽るように言って、彼は僕の服の中に手を伸ばしてくる。

「ひゃっ……! ふっ……ん……ぁ……っ! く……」

背中に直に触れられ、甘い声が漏れ出てしまう。

「ふふ、我慢できてないぜ? それとも、そうやって俺を煽ってる?」

「そんな、こと……ふ、ぁ……な、い……」

喘ぎながらも、僕は否定する。意図的に、彼を煽るなんて芸当、今の僕にできるはずがない。

「じゃあ、気持ちいいんだ? でもさ、もっと気持ちいい事、したくない?」

相沢さんが、耳もとで甘くささやく。

僕は、必死に首を横に振って抵抗する。

「少しは、乗ってくれるかと思ったんだけどな」

残念そうに言うと、相沢さんは、背中から手を離し、僕の手をふにふにと触り始めた。

「さすがに……連日は、キツイよ」

「じゃあ、もっと気持ちいい事は、次の土曜日の夜に。ね?」

と、相沢さんが僕の手の甲にキスを落とす。

彼の仕草と手に触れる感触に、僕は反射的にうなずいていた。

次の土曜日に、あの快楽がまた味わえる。そう思うと、僕の体は勝手に敏感になり、腹の奥がきゅうっと疼いた。

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